資料参照(わがまち天王寺 天王寺区役所発行など)
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@庚申堂七福神 文武天皇大宝元年(701)正月17日庚申の日に、青面金剛童子がこの地に出現し、当時流行の疫病を鎮めたといわれ、そこから庚申信仰の発祥地となった。三猿信仰や庚申の日に北向きでコンニャクを食べる風習を生んだ。 |
| Aかんしづめ井戸 上下水道が完備するまでの大阪は、飲料水を淀川から汲み取って、市内を売り歩く水屋の水や、良質でない井戸水に頼っていた。しかし天王寺付近の台地には良質の井戸が多く、特に増井・安井(安居)・亀井・逢坂・玉出・有栖(土佐)・金龍の7ヶ所は「天王寺の七名水」と呼ばれていた。 安居神社境内の「かんしずめの水」(癇静め)と言われた安井に屋形の形態をとどめている。 |
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B真田幸村戦死跡之碑 安居神社の境内は、真田幸村戦死の地と伝えられている。大坂夏の陣の際、茶臼山に布陣した幸村は徳川家康本陣に襲い掛かり、松平忠直の軍勢と激戦、家康を窮地に追いつめるも遂に力尽きてここで戦死したと言われている。 |
C四天王寺六時堂 推古天皇元年(593)聖徳太子によって創建された飛鳥時代の代表的な寺院。創建の由来については「日本書紀」によると。蘇我馬子と物部守屋の勢力争いが排仏・崇仏の両派の武力抗争に発展した。馬子側に参戦した聖徳太子は、乱平定のあかつきには、寺塔を建立することを四天王に祈願して、首尾よく物部氏を倒し、馬子は大和に飛鳥寺を、太子は難波の荒陵(あらはか)の地に四天王寺を建立した。それは国家鎮護を願い、難波の港に面して国威を誇示するためでもあったという。中心伽藍は、南大門・中門・塔・金堂・講堂が一直線上に並び、中門の左右から延びる回廊が講堂に連なるという四天王寺式伽藍配置の典型であり、近年の発掘調査で、堂塔の位置は創建以来ほとんど変わりがないことが実証されている。現在の中心伽藍は昭和38年、その旧位置に飛鳥様式で復元されたもので、鉄筋コンクリート造りとは思えない美しい姿で創建当時を偲ばせてくれる。幾多の災害にみまわれたが、西門石造鳥居は、永仁2年(1294)建立の寺内最古のもので、本坊方丈、そしてこの六時堂など元和9年(1623)建立のものが戦災からも免れて残っている。 |
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D清水寺 玉出の滝 清水寺(清光院)は寛永17年(1640)延海阿闍梨によって京都の清水寺を模して北、西、南、が崖になった高台に改構されたもので、その昔はここからの眺望は絶品とされていた。境内には音羽の滝にならった市内唯一の「玉出の滝」が三条の水を落とし、今でも滝に打たれて修行する人の姿を見ることができる。 |
| 上町台地には風情のある坂道が現在も残されている。この付近には寺や神社が多く、その名をつけ、あるいは坂の形などから真言坂・源聖寺坂・口縄坂・愛染坂・清水坂・天神坂・逢坂と呼び天王寺七坂と言われてきた。 | |
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E天王寺七坂1.口縄坂 「十三まいり」の太平寺から松屋町筋に至る緑濃く静かな石畳の坂。坂の下から眺めると、道の起伏が「蛇(くちなわ)」に似ているところから、この名が付けられたという。付近の浄春寺には、天文暦学者 麻田剛立・画家 田能村竹田、春陽軒には国学者 尾崎雅嘉、太平寺には医家 北山寿安ら、江戸時代に活躍した先人の墓がある。 |
F天王寺七坂2.逢坂 天王寺区松屋町筋終点、いわゆる合法ヶ辻から東に上がって四天王寺西門に至る坂道。逢坂は、逢坂の関になぞらえて呼んだものとも、他説では聖徳太子と物部守屋の二人が信じる方法を比べ合わせたと言われた「合法四会」(がっぽうがつじ)に近いことにより合坂(おうさか)と名付けられたなどの諸説がある。 |
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G天王寺七坂3.天神坂 安居神社へ通じる坂道なので、このように呼ばれている。この神社境内は真田幸村が大坂夏の陣で戦死したところで、本殿脇に「真田幸村戦死跡之碑」がある。(B参照) |
H天王寺七坂4.真言坂 生國魂神社北側にある南北の坂をいう。生國魂神社の神宮寺であった法案寺をはじめとする生玉十坊が明治の廃仏毀釈まで神社周辺で栄えていた。その内、神社の北側には医王院・観音院・桜本院・新蔵院・遍照院・曼荼羅院の六坊があり、全て真言宗であったのでこの坂を真言坂と呼ばれた。 |
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I天王寺七坂5.源聖寺坂 源聖寺の横から生玉寺町に至る狭く曲がった石畳の坂で、登り口に源聖寺があるのでその名を取っている。付近一帯は、寺町として長い歴史を持ち、齢延寺には幕末に泊園書院を興して活躍した藤沢父子の墓があり、銀山寺には、近松門左衛門の「心中宵庚申」に出てくる<お千代・半兵衛>の比翼塚が建てられている。 |
J天王寺七坂6.愛染坂 大阪星光学院北側から松屋町筋に通じる急な坂道。坂の下り口にある勝鬘院(愛染堂)から名付けられたといわれる。愛染さんの夏祭り(6月30日〜7月2日)は大阪夏祭りの先駈けとして知られ、境内の多宝塔は市内最古の木造建造物で重要文化財に指定されている。(L参照)大江神社には「夕陽岡」の碑があり、この辺りからの夕焼けは今も美しい。 |
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K天王寺七坂7.清水坂 大阪星光学院と清水寺(清光院)との間にあり、愛染坂と交わるまでの広いゆったりとした坂道である。清水寺の北側にあるためこの名で呼ばれている。高台にある新清水寺境内からの眺望は格別で、さらに境内南側の崖から流れ出る玉出の滝は大阪唯一の滝として知られている。(D参照) |
L勝鬘院 多宝塔 聖徳太子が四天王寺を建立した時、敬田・施薬・悲田・療院の四院を造営したが、その一つ施薬院の後身で、太子が勝鬘院を講讃した霊場といわれ、愛染明王をご本尊に安置するため、俗に「愛染堂」ともいわれる。境内の多宝塔は、慶長初期(1600年頃)の建造といわれ、全国有数の大きさを誇り、市内唯一の桃山時代の遺構で国の重要文化財である。一般には愛染さんと呼ばれ、愛染祭は大阪の夏祭の幕開けとなり、宝恵駕籠が出て賑わう。 |
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M竹本義太夫墓所 超願寺 義太夫節浄瑠璃の元祖といわれ、慶安4年(1651)この付近(堀越神社南約100mの路上に生誕地碑がある)に生まれた。若い頃から研究熱心で小唄・俗謡から物売りの呼び声まで身につけ、将来に備えた。その後、京・大阪で修業、延宝5年(1677)独立、竹本座を創設した。作者に近松門左衛門を迎え、三味線・人形の名手、経済面での協力者を得て「曾根崎心中」で空前の大当たりを取った。正徳4年(1714)没。享年64歳。 |
| N織田作之助墓所 楞厳寺 碑文より 「小説家織田作之助は大正2年10月26日大阪市天王寺区上汐町に織田鶴吉多加えの嫡男として生れ高津中学校を経て第三高等学校に学んだ。天賦の文才は夙くより現われ、処女作夫婦善哉によって一躍新進作家の最前列に加る。長短の佳篇を相ついで発表。昭和文壇随一の小説巧者の名を擅にした。されど惜むべし。鬼才は文学を熱愛するの余り虚弱の己が肉体を忘れた。即ち読売新聞に長篇土曜婦人を連載中東都の旅舎に宿痾革まり昭和22年1月10日ロマンコを発見したとの伝説的な一語を遺し世を挙げての哀惜の裡に忽焉として天折した。行年35才 昭和23年11月 藤沢恒夫文 吉村正一郎書 」 |
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O契沖旧庵(円珠庵)跡 江戸時代初期の国学者・契沖がその晩年に隠棲し、専ら古典の研究に親しんだところ。 契沖は寛永17年(1640)尼崎に生まれ、11歳の時に今里の妙法寺で出家し、高野山に上って真言宗の仏学を修めた。40歳で妙法寺住職となり、51歳の時に 円珠庵に隠居した。万葉集を注釈した「万葉代匠記」の研究態度は客観的、帰納的ないわば文献学的方法に拠ったもので、国文学研究史上に新時期を画したといわれる。 |